築地/ 波除神社 (大獅子)
波除神社
築地市場界隈の午後は早朝の喧騒とは裏腹に静かである。
先日、銀座から少し足を延ばして築地の場外市場を漫ろあるいたが、午後3時頃ともなると「波除神社」の辺りを行き来する人の姿は疎らであった。 波除神社
「波除稲荷神社」の創建は万治年間(1658~1661年)である。
その由緒は、次の通りである。(出典:築地 波除神社HP、神社のご紹介)
『今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見えます。開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられました。
そして70年の後、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。
或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治2年(1659)の事です。
人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に 『波除』 の尊称を奉り、又雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼 『つきじ獅子祭』 の始まりです。
それ以来今に至るまで、「災難を除き、波を乗り切る」 波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第々々に開け、現在の如く繁華街となったのであります。』
御本社
鳥居をくぐると正面に「御本社」がある。
「御本社」に向かって右側には「獅子殿」、そして左側には「摂社弁財天社」がある。 獅子殿と天井大獅子
「獅子殿」には「天井大獅子」が納められている。
この「獅子殿」は昇殿することが許されていて「天井大獅子」の後ろに回ることができるのである。
既に何度も参拝していたのであったが、このことに気付いたのはこの日が初めてであった。
静々と階段を上って行ったが、社務所に居られる神子さん達は気付いておられるのかおられないのかこちらを見ることもなく談笑されているのであった。
「天井大獅子」の後ろに回ってみると、大きな鼻の穴から光が差し込んでいて、その向こうには境内がみえるのであった。 天井大獅子
天井大獅子の裏側(二つの穴は鼻の穴)
「摂社弁財天社」には「お歯黒獅子」が納められている。
「お歯黒獅子」は雌の大獅子である。
雌と分かると顔つきがこころなし優しく見えるのは気のせいであろうか・・・。 摂社弁財天社とお歯黒獅子
お歯黒獅子
なお、詳しくは「波除神社」のHPをご覧ください。
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