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ダイサギ
久しぶりに白鷺の姿を見ました。
場所は野川の淵で、武蔵野公園に向かって歩いていた時でした。
野川では淵の草刈が計画的に進んでいますが、最後に行われる予定の繁みの蔭にダイサギの頭が見えたのでした。
注意を払わないで歩いていたなら見逃していたと思える程度に見えたのでした。
驚かさないように距離をとって、ズームレンズを最大の300mmにして撮影を行いました。
その時の写真を拡大してみますと、その優美な姿からは想像できないような鋭い眼光の顔をしていたことが分かりました。
この後、武蔵野公園で折り返して反対側の土手を戻ってきますと、白鷺は3羽居ました。
暫くの間、木陰からそっと見ていますと、餌を漁っている様子で時々嘴を川の中に入れたり、あるいは歩いて場所を変えたりしていました。
また、時々羽を広げて飛び上がったりということも繰り返していました。
この後、帰路についた私は、最初に現れた橋の上から白鷺たちがいた方に目を遣りますと、一羽の白鷺が低空飛行で近寄ってきて、橋の手前で急上昇して私の近くを飛び過ぎていったのでした。
これは撮影ということではめったにないチャンスです。
とはいえ、時間にして数秒のことであり、カメラを構えてシャッターを切りましたものの低空飛行の姿は撮影できませんでした。
そして、目の高さより高い位置を飛ぶ姿は辛うじて撮影できましたが、直ぐ傍を羽音を立てて飛び過ぎる姿はダイナミックであると同時に華麗でありました。
石窯パン工房 サンメリー武蔵小金井店
何時の頃からかは定かではありませんが、一寸した街には数件のパンを焼いて販売される店を見ることができる様になっています。
そして、それらの店では調理パンあるいは惣菜パンと称されるパンが販売されていて、サンドウィッチを除きますとその上位にランクインするのがカレーパンや焼きそばパンであると推察するところです。
先日。JR武蔵小金井駅の南側にある「石窯パン工房 サンメリー武蔵小金井店」に立ち寄った際に、他店では見かけたことのない焼きそばパンが並んでいました。 よくばり焼そばパン
その名は「よくばり焼そばパン」といい、普通の焼そばパンよりは大ぶりのサイズとなっていました。
その量だけでも『よくばり』と称する価値があるというものですが、更には挟まれている焼そばが2種類になっているという味わい的にも贅沢なものなのでした。
2種類の焼そばの一つは「ソース焼きそば」であり、もう一つは「塩焼そば」(といって良いのでしょうか?)でした。
そして、それらの境界上には色の淡い紅生姜が置かれていました。
どちらの焼そばも、物理的にはコッペパンのフワリとした弾力とマッチする口当たりを呈していました。
また化学的にはコッペパンの小麦粉系甘味とソース系スパイス味(ソース焼きそば)およびオイリーさを伴った塩味(塩焼そば)が咀嚼によってハーモナイズしつつ進行する味の不可逆反応でまったりとした味わいに変貌するという一品でした。
なお、全くの私的見解ではありますが、この「よくばり焼そばパン」には妙な工夫を施さずに日本茶を合わせるのがベストであると思料するところです。 ジャンボフランクドッグ
また、「よくばり焼そばパン」が大きなサイズを誇っているとはいえ、これだけでは昼食としては物足りないと思って追加で購入したのが「ジャンボフランクドッグ」でした。
これまたその名に恥じないジャンボサイズで、特にフランクフルトソーセージが見かけによらぬ巨大サイズでして、食べ終えた時には胃袋が100%充填という状態になっていました。
てんぷら 深町 (2011年8月26日)
新宿のクリニックに行った帰り道に高島屋新宿店の上層階で昼食を2回摂った以外は外での食事を自粛する生活がもう半年ほど続いています。
そういう状況ですので、偶に過去に撮り溜めた写真を見ていますと、美味であった店の味が蘇ってまいります。
「てんぷら 深町」につきましては、美食家のYH氏と訪ねた際のことは2013年9月に記していますが、それに先立つ2011年8月に初めて訪ねた日のことはブログを始める前でしたので記してはいませんでした。
今回はその時に抱いた印象がメモに残っていましたので、そのメモをベースにして記してみようと思います。
この日はこちらも美食家であられるAT氏と一緒で、汐留からゆるゆると漫ろ歩いて「てんぷら 深町」へ向かったのでした。
そして「てんぷら 深町」に着いたのは12時半という頃合いで、店はまだ賑わいがピークであろうと推察されるタイミングでしたが、引き戸を開けて暖簾を潜ったのでした。
店内に歩を進めますと、幸いなことにカウンター席が空いていて、そこに案内されたのでした。
席に付いて「特製かきあげ天丼」を注文してから改めて店内に目を遣りますと、羽振りの良さそうなご夫人たちで店内は占められていて、一人で来店された人が2組、二人連れで来られた人達が1組、そして3人連れが1組という状態でした。
また、3人組のご夫人方にいたってはビールを酌み交わしておられたのでした。
一方、男性客に関しては私達が入店した時に天丼を食べ終わろうとしている30代後半位の男性のみでした。
ということから、この店は夜は企業の接待、昼はマダムの御用達か?と推察したのでした。
こうして店内を鑑賞し、かつAT氏と談笑しつつ待つこと暫し、「特製かきあげ天丼」が供されました。
「特製かきあげ天丼」のかき揚げはオクラ、ゴーヤ、百合根、海老、帆立、などで構成されており、その上にアスパラが一本まるまる載せられていました。
なお、揚げ手は店主殿と思しき年配の御仁と若い30歳過ぎくらいのお兄さんの二人で、店主殿がお兄さんのを指導しておられました。
「特製かきあげ天丼」に続いて蜆の赤だしが供されました。
お運びは中年の女性二人で、エプロン姿という飲食店としての清潔感のあるいでたちでした。
全ての料理が整い、AT氏とイザタベルラム!と食べ始めました。
そして、良い食材と好い揚げ具合で供された「特製かきあげ天丼」を落頬垂涎落涙の境地で食べ進めたのでした。
なお、東日本大震災の後の最初の夏でエアコンが抑え気味であったせいか店内は暑く感じられて、ズボンの膝の内側に汗が染みたのでした。
余談ですが、帰り道で当時まだ在った「ホテル西洋」で「レーズンブレッド」を購いました。
「ホテル西洋」がなくなったのは返す返すも残念なことです。
白い彼岸花
4年前にも書きましたが、今年も貫井神社の前の駐輪場の処にある生垣に白い彼岸花を見ました。
私の知る限りではありますが、他所では白い彼岸花を見たことはありませんので、白い彼岸花は珍しいものであると推察しています。
一株のみの白い彼岸花は、降り続く小雨の中で、生垣の緑に囲まれて一際鮮やかでありながらも清楚な姿をしていました。
また、おしべには雨を受けて多数の水滴が並んでいました。
雨の日の散歩ゆえに出会えた景色でしょうか・・・。
また、野川には歩いたエリアに一カ所だけでしたが赤い彼岸花が咲いていました。
こちらも小雨に濡れて静かに咲いていました。
雨の中、川の岩の上で昼寝をする鴨ちゃん
なお、野川の中にある岩の上では一羽の鴨ちゃんが昼寝をしていました。
雨が降る中で寒くはないのでしょうかと気になることでした。 雨を受けた鴨ちゃんの上には羽毛にはじかれた水の粒
昨日は「Oyster Bar」について昔の記憶を辿ったので、今日はその「Oyster Bar」がある「Grand Central Terminal」について書いてみようと思いましたが・・・。
私はNY勤務時代の通勤はNew Heaven LineのRyeという駅からGrand Central駅まで電車通勤をしていました。
ということで、Grand Central駅の写真は少なからず撮っていたはずなのですが、整理整頓に問題があるようで直ぐには見つかりませんでした。
ということで、今回は2005年10月に出張した際に撮ったメインコンコースの写真を掲載することとし、撮り溜めた写真が見つかったタイミングで改めて記述させていただこうと思います。
Oyster Bar
日本食、特に寿司がブームになるまでは、アメリカでは生の食物は野菜以外は食されることはなかったようです。
ただし、例外として牡蠣および蛤は古の頃から生で食されてきたということでした。
その牡蠣や蛤を核にしてシーフードを供するレストランとして1913年から営業を続けているのが「Oyster Bar」です。
「Oyster Bar」はGrand Central Stationの建物内にあり、その歴史的知名度の高さと交通の便の良さ、更には料理ならびにワインのストックの多様さから人気の高いレストランです。
とはいえ、格式ばった店ではなく、テーブルセッティングなどはカジュアルなものでした。
私が勤務していた頃のオフィスはグランドセントラル駅から数ブロックの処にあり、日本人社員の多くはグランドセントラル駅を経由して通勤していました。
ということで、グランドセントラル駅構内の「Oyster Bar」に立ち寄るということは一種の盲点になっていて、私は米国勤務中に「Oyster Bar」を訪ねたのは僅かに2回のみでした。 メニュ(1992年9月24日の日付)
その2回目というのが1992年9月24日のことで、今から28年前のことでした。
この日は現地法人の社長以下数名の日本人社員6名ほどで訪問したことは記憶するところです。
「Oyster Bar」はシーフードの名店ですから、その名を店名に冠した牡蠣をいただくのは当たり前としても、先ずはAPPETIZERSの中から「SHRIMP COCKTAIL」と「SMOKED SALMON」を人数の半数オーダーしたと記憶しています。
先ず「SHRIMP COCKTAIL」ですが、比較的大きめの中サイズのエビのボイルされたものが昔のシャンパングラス(ショーン・コネリーの頃の007がシャンパンを飲む時に使った口が大きく平たいグラス)の淵に沿って身は内側に尾は外に出して並べられた状態で供されました。写真が無いのが残念至極です。
一緒に供されるのが「カクテルソース」というトマトピューレをレモン果汁とタバスコで味付けしたようなソースとレモンを縦切りにしたものでしたが、私はこの「カクテルソース」が存外に好きで、結構ドップリと付けていただきました。
最初に「カクテルソース」の淡い辛味を伴った酸味を帯びたトマト系の旨味が舌の中央に広がり、咀嚼を始めるとエビの弾力ある歯応えと同時にエビに固有の甘味が口腔内に広がるのですが、暫し味わった後にカリフォルニアの白ワインを送り込みますと口腔内はこれまた得も言えぬ美味に満たされるのでした。
次に「SMOKED SALMON」です。
多くのアメリカ国内のレストランではカナダあるいはアラスカで獲れたキングサーモンの燻製が供されるのですが、この日いただいたのはカナダ産のものであったというふうに朧な記憶があります。
この「SMOKED SALMON」は程良い厚さにスライスされた大ぶりのものが数枚並べられており、私はレモンを絞りかけていただきました。
この「SMOKED SALMON」は舌の上に乗った瞬間にその脂の載ったネットリとした舌触りが心地よく、咀嚼によって滲み出るキングサーモンの旨味と軽い燻製香がタマラヌ味わいとして広がるのでした。
ここにカリフォルニアの白ワインを一口含みますと、まさに歓喜落涙の境地が訪れるのでした。
APPETIZERSの次は我々日本人にとっては生の牡蠣がヨロシイようです。
牡蠣は15種類あって、ウェイターのおっちゃんが1個1個産地と特徴を説明してくれます。が、最初の方は真面目に聞いているのものの後半以降の方はいい加減に聞いているだけです。
ということで、メニュに書いてある名前からの印象と産地から各自好きなものを5品程選びました。
注文した牡蠣は大きな平たいスティールの皿というかプレートに氷をドッサリと敷きつめた上に並べて供されますが、ここでもウェイターのおっちゃんがこれは何々と説明してくれるものの自分の注文した牡蠣の場所を憶えるのに精いっぱいで、最初の3個くらいまでしか誰も憶えていないのでした。
私は米国北東部を産地とする牡蠣を選択しました。
私は基本的にはレモンを絞りかけていただくことにしていますが、私にとってその食べ方が牡蠣の個性の相違が分かりやすいからです。
牡蠣の大きさは長径が親指ほどの長さのプックリとしたもので、スルッと一口で食べるのに丁度好い大きさでした。
因みに、私が持った印象ですが、アメリカで食する牡蠣は日本のものよりも香が淡いものが多かったです。
なお、私の印象にのこったのはロングアイランド産のBLUEPOINTで、その名の通り胴体に濃緑色の直径が3mmほどの小さな円形の部分がありました。多分ですが、消化器系内蔵が体表の近くにあって食べた海藻の色が現れているのであろうと推察しています。このBLUEPOINTもアッサリした味わいの牡蠣でした。
また、牡蠣に合わせてCLAM即ち蛤もいただきます。
CLAMには「LITTLE NECK」と「CHERRYSTONE」があり、いずれも日本の蛤に比べると小さいサイズのものが供されます。
これらも一人3個づつ程度をオーダーしていただきましたが、私はレモンを絞りかけるだけでいただきました。
「LITTLE NECK」も「CHERRYSTONE」も咀嚼によって固有の淡い渋味を帯びた貝の甘味が感じられました。
因みに、「LITTLE NECK」や「CHERRYSTONE」は海外航路の船によって世界の各地に運ばれ、日本では東京湾の三番瀬で獲れる「ホンビノス貝」となっています。(現代の大型船は船のバランスをとるバラストタンクに海水を溜めたり排出したりして船の姿勢を適切に保つのですが、この海水の出し入れによって貝などの海洋生物が別の海に運ばれるそうです。)
最後に、SOUPのカテゴリーから「CLAM CHOWDER」をいただいて〆としますが、これでお腹は満腹状態となります。
というのは、「CLAM CHOWDER」にはクラッカーを砕いて入れるのですが、「CLAM CHOWDER」自体にヴォリュームがある上にクラッカーの存在も侮れない量となっているからです。
因みに、メニュには「MANHATTAN CLAM CHOWDER」と「NEW INGLAND CLAM CHOWDER」とがありますが、前者はトマトベースのもので色も味わいもトマトのアクセントが感じられるものです。一方、後者はオーソドックスなもので、前者も後者も貝の旨味が効いた美味しいものです。
この日の私は「NEW INGLAND CLAM CHOWDER」をいただきましたが、正統派の味わいでした。(なお、「MANHATTAN CLAM CHOWDER」はこの2年前に食しましたです。)
なお、「Oyster Bar」の人気を高めているファクターの一つがその豊富かつ良質なワインストックであり、アメリカ、特にカリフォルニアの白ワインに関しては特筆するべきものがあります。
このリストの中から私が選択したのは「Beringer Chardonnay PROPRIETOR GROWN」と「FERRARI CARANO Chardonnay」でした。(写真は参考まで。)
いずれも素晴らしいワインでしたが、詳しくは後日に機会があれば触れたく思います。
FERRARI CARANO Chardnnay 1992
中尊寺の駐車場からの眺め
漸く季節が猛暑の夏から秋へと遷っていき、朝晩も爽やかになってきたようです。
先日、ネガフィルムを整理していますと高校2年生の時の修学旅行で撮った写真が出てきました。
記憶を辿りますと、今から50年ほど前の1970年の秋に高校の修学旅行があり、蔵王から青森駅までバスで北上する機会に恵まれたのでした。
修学旅行とはいいましても私の出た高校は男子校でして、男子校の例に漏れず華やいだ雰囲気というものが皆無のガサツな修学旅行でした。
この写真は中尊寺にある金色堂を見に訪れた際に、バスの駐車場から撮影したものです。
秋になりますと、時々ではありますが何故かこの写真を思い出すことがあり、撮影の場所も、撮影した時の夕方に近い時間帯の肌寒い空気も、同時に思い出します。 バスの中からの眺め
写真は、中尊寺にあるバスの駐車場から見下ろした刈入れの終わった田圃の景色と、バスで移動中に車内から見た田圃に積まれた稲だったか藁だったかは分かりませんがその時に見たものです。
ところで、今でもこのような景色は見ることができるのでしょうか?それとも50年という歳月の間に農法は変化したのでしょうか?
機会があれば秋の東北を訪ねてみたいことです。
なお、全くの余談ではありますが、今から55年以上前のことです。
私は小学生でして、私の通っていました公立小学校への通学路の途中に田圃がいくつもありました。(今ではというか、もう30年以上前から田圃であった場所は住宅地に変わっています。)
その田圃には稲の刈入れが終わりますと、掲載した写真のように稲穂が束ねられて子供の身長よりも高く組み上げられていました。
そして、毎年のように朝礼で組み上げられた稲穂の上に登らないよう注意がなされたのでしたが、悪ガキどもが聞くはずも無く、稲穂の束が崩れてしまうことから苦情が寄せられるということが繰り返されていました。
私が小学5年生の時であったかと記憶していますが、同じ方向に帰る活発な友人の一人TK君が「遊んでいこう!」といい、田圃の中にある組み上げられた稲穂の塔(私にはとてつもなく高い塔のようにみえたのでした)によじ登り始めました。
もう一人の友人YK君もよじ登り始め、二人とも2m程ある頂上に登り切ったのでした。
「ジャッカル君もおいで!」というので、私も稲穂に摑まりつつ登ると初めてではありましたものの存外に簡単に頂上に辿りつけたのでした。
が、稲穂の束は3人が登ったことによって一部分が崩れていました。
そして、悪い事をしてしまったという意識を持ちながらも、周りを見ますと高いところからの景色は見なれないだけに随分良い景色だったのでした。
これに味をしめて、同じ仲間と数日後に違う田圃の稲穂の塔に登ろうとすると、どこに隠れていたのかは分かりませんが農家のおっちゃんが「くぉ~るぁ~~~ぁ、待たんかい~~~ぃ!」と言いつつ追いかけてきたのでした。
私達は一目散にその場から逃げて摑まることはありませんでしたが、翌日の朝礼で「誰かは分かりませんが、また稲の束に登ろうとした生徒がいます。皆さん、こういうことはあかんことですからやめましょう。」という注意がなされたのでした。
昔々の思い出です。
蘭州(2011年8月17日12時44分)
「蘭州」に初入店した約1ヶ月後の2011年8月17日に前回食べそびれた「チャーハン」を食するべく再訪しました。
この時は学習効果ヨロシクテーブル上のメニュをチェックしました。 メニュ
そして「チャーハン」という文字を視認しましたのでこれにするべいと思った矢先に、同行のAT氏が「マーボーなす丼」(メニュには「マーボなす丼」と記載されています)にするということでしたのでメニュのその部分を見ますと、その下に「チャーハンうま煮丼」と書かれているのに気付きました。
価格は「チャーハン」も「チャーハンうま煮丼」も同じです。
それならば、味の多様性を考えて「チャーハンうま煮丼」にするべいと思い、こちらを選択したのでした。 チャーハンうま煮丼
「チャーハンうま煮丼」はチャーハンの上に野菜が主体の八宝菜(所謂中華丼の頭)がかけられたものでした。
いざ食してみますと、チャーハンはそのものだけでも美味でした。
そして「チャーハンうま煮丼」は、最初は私が想定していたよりも薄味に感じられましたものの食べ進むに従って塩味が効いたものに変貌したのは朧気ながらも記憶するところです。
また、その量は多く感じられましたが、最後まで美味しくいただいた次第でした。 スープ
ザーサイ
同行のAT氏のマーボーなす丼
蘭州は2階もあった
蘭州(2011年7月14日12時44分)
昨日の朝日新聞の朝刊(48234号、14版、2020年9月20日)に1981年から約40年間に亘って営業を続けてきた中華料理店「蘭州」が9月19日に閉店となったという署名(山本記者)入り記事が掲載されていました。 壁のお品書
私は「蘭州」に左程頻繁に通った訳ではありませんでしたが、料理の味が濃いめで食欲が高まり、また量も多めであったことから、昼食を対象とした店の中でも印象に残る店の一つでした。 生姜焼き定食
今日、手元にあるメモを改めて見返してみますと、私が初めて「蘭州」を訪ねたのは2011年7月14日のフランス革命の日(って、蘭州とは何の関係もありませんが)のことでした。
そして、メモの一部に「炒飯を注文するつもりでいたが壁のお品書にはチャーハンの文字がない。仕方がないので「生姜焼き定食」を注文。しばらくしてテーブルの横をみるとメニュウが立っており、ここに炒飯が書いてあった。再訪を期す。」と記していました。 生姜焼き
ということで、初訪問の日は中華料理ではなくて「生姜焼き定食」を食していたのでした。
なお、当時の私の感覚では「蘭州」の料理の量は他店に比べて少し多めであるという感じでしたが、会社を辞する2013年頃にはテレビで大盛の店として紹介されるようになっていましたので、私の胃袋のキャパが変化したのかあるいは「蘭州」の標準量が変化したのか、今では検証することは不可能になってしまいました。 スープ
因みに、私が訪ねていた当時は喫煙が可能でした。
そして、店に置いてあるスポーツ新聞を近所の会社に勤める比較的年配のサラリーマン諸氏が足を組みつつ煙草を咥えながら読んでいるという光景を見ることができるというサラリーマンの昼食兼息抜きの店となっているようでした。
ただ、大盛の店として喧伝されるようになってからは若者の比率が増した様に感じられましたが気のせいだったのでしょうか・・・。 同行のAT氏が食されたマーボーなす定食
三省堂 デイリーコンサイス英和・和英辞典 第3版
勉強不足というか世間の動向に疎かったというか「フレイル」という言葉を知りませなんだ。
手元の辞書を参照しますと『肉体的あるいは精神的に弱い』というような意味のことが書かれていました。 Merriam Webster's Collegiate Dictionnary Tenth Edition
「フレイル frail」という言葉を知ったのは、昨日の日本経済新聞の夕刊(第48321号、2020年9月19日)によってでした。
記事によりますと、この「フレイル frail」という言葉は『高齢者が介護を受ける一歩手前の状態』ということです。
更に記事では、『フレイルは日本老齢医学会が2014年に提唱した概念だ。加齢に伴う体重の減少や筋肉量の減少、認知機能の低下などの肉体的・精神的な衰えを指す。放置すると介護が必要な状態になるリスクが高まる。』と記されていました。
私がこの記事に注意をひかれたのは、私自身が新型コロナウィルス対策で人混みへの外出を極力制限していることから日々の歩行数が激減していて、どうもそのことによって立位でのバランス感覚が悪くなっていると感じていたからです。
体重の変化は殆どないものの認知機能、特に視覚情報の認知機能、が明らかに低下しているのは強く自覚するところで、こういことも他の身体機能と密接に相関していると考えれば、先ずは筋肉を含めた身体の改善に努めるべきかと思料しているところです。
先ずは手始めに肉をたらふく食べて、毎日の歩行数を増やすことから始めようかと考えていますが・・・。 野川のお触れ書
ということで、午後に雨がパラつく中、野川まで散歩をしてきました。
左程の歩数にはなりませんでしたが、歩かないよりはまし!ということで今日はこれで良しとするところです。
イトーヨーカドー武蔵小金井店
私が気付いたのはこの3カ月程のことですが、イトーヨーカドー武蔵小金井店の出入り口に足踏み式の消毒液噴霧装置が常備されています。
小金井市内の商業店舗や公共施設については寡聞にして知るところではありませんが、足踏み式の消毒液噴霧装置を設置されているのはイトーヨーカドー武蔵小金井店だけのようです。
コロナ禍対策の一つとして多くの店舗はアルコール消毒液の噴霧装置を出入口に設置されていますが手押し式であって、プッシュする部分には直に触れることになります。
一方、イトーヨーカドーの方式である足踏み式ですと直に触れることがなく、徹底した消毒を期待できるというふうに推察するところです。 消毒液噴霧装置
この足踏み式消毒液噴霧装置は全ての出入り口に設置されており、また消毒液の補充および装置のメインテナンスを考えますとそれ相応のコストが必要になります。
小売業におかれてはコロナ禍における収益確保のために1円単位のコストダウンを実施されているようですが、それにも係わらずこの装置の導入を考案および立案した方々、それを裁可したマネジメントの方々の顧客の安全をより強く考えるという姿勢に敬服した次第でした。
今から28年前の9月12日にミュージカル「Miss Saigon」を観ました。
「Miss Saigon」は、プッチーニのオペラ「マダム・バタフライ」をベースにしたミュージカルでしたが、部隊はヴェトナム戦争下のサイゴンを舞台にストーリーが展開されていました。
このNYにおける「Miss Saigon」は1991年4月に初演されて以降、ブロードウェイでチケットの入手しにくいミュージカルとなっていました。
私が観たのは1992年9月のことですから、チケットも多少は入手が容易になっていたのでしょうし、勤務場所がHoustonからNYに移って暫く経った頃のことで物珍しさから観に行ったのではなかったかと思います。
ストーリーは比較的シンプルでしたが、私個人としては「マダム・バタフライ」に興味を惹かれなかったのと同様に「Miss Saigon」にも左程の興味は惹かれませんでした。
また、ラストのヘリコプターが現れるシーンがハイライトの一つとなっていましたが、音響効果やヘリの動きはなかなかのものでしたがそれだけであったように思ったのでした。
なお、この「Miss Saigon」が日本では今年の4月に帝国劇場にて豪華キャストで上演される予定だったようですが疫病コロナのせいで中止になったとのことです。
消毒用エタノール IK
先日、散歩の際にドラッグストアに立ち寄りました。
といいますのは、疫病コロナの第3波に対する備えとして、箱入りのマスクや消毒用アルコールがあれば購入しておこうと考えたからです。
そうはいいましても、ここ8ヵ月以上の間は残念なことに詰め替え用の消毒用液体(6月頃からジェルは良く見かける様になりました)アルコールの容器を目にすることがないまま時間だけが過ぎていたのでした。
ということで、ドラッグストアでは全く期待することなくアルコールが販売されている棚を見ますと、あったのです。
「消毒用エタノール」と書かれた500mlのボトルが。
この時は我が目を疑いましたです。
そして、改めてラベルの記載内容を読みますと、正に私が探し求めていた液体状の消毒用アルコールだったのでした。
あな嬉し!と1本を手にしっかり確保し、レジに向かったのでした。(購入できるのは1人1本)
日頃は人混みに出掛けることは避けていますので、これだけの量があれば来年の春頃までは対応できそうです。
宝焼酎PURE25
今から思い返しますと、新型コロナウィルスが疫病として知れ渡り始めた1月下旬から2月上旬にかけてのことでした。
私は新型コロナウィルスに関して殆ど知識が無いものの、報道でアルコールが消毒に効果があると聞いていました。
しかしながら、その当時には既に消毒用のアルコールが巷から姿を消していたことから、何か消毒に使える代替材料は無いかいなぁと探していました。
私の知る限りではアルコール飲料、例えばウィスキーやブランデーのようなアルコール含量が高いものでもせいぜい十数パーセントというもので、さすがにこれらでは消毒効果は低いということは想像していました。 アルコール分25%、おまけにプリン体ゼロ!
しかし、時代劇などから得た知識では、怪我や刀傷を負った場合には鞍馬天狗や丹下左膳のようなヒーローは徐に焼酎を口に含みブ~~、ブブ、ブ~~~ゥ!と吹きかけていたということも知っていたのでした。
そこでイトーヨーカドーに行った際に焼酎売り場を見ますと、殆どの焼酎はアルコール含有量が20パーセント以下であったのに対して、唯一「宝焼酎PURE25」だけが25パーセントという高濃度含量となっていたのでした。
これは鞍馬天狗や丹下左膳、はたまた白馬童子で使われる焼酎並の消毒効果を発揮するものと考え、早速に購入した次第でした。
その日は実に良い買い物をしたものであると満面に笑みを浮かべつつ博識を誇られるYA氏に有用なる情報として伝えたのでした。
すると、YA氏からは「それはアカンでぇ。コロナウィルスに対する消毒効果はアルコール含量が67パーセント以上でないと発揮されへんでぇ。」と返事が返ってきたのでした。
そして、YA氏を疑う訳ではありませんでしたがネットで確認してみますと、やはりYA氏が指摘された通りのことが書いてあったのでした。
この「宝焼酎PURE25」に関しては、YA氏の博識に脱帽するとともに、期待の新型コロナ対策兵器でしただけに残念な思いをしたことでした。
なお「宝焼酎PURE25」は未だ飲まずに置いてあり、疫病コロナが終息した暁にはこれで祝杯を挙げたく思うところです。
「CHICHEN ITZA」(チチェン イツァ)は紀元900年頃から1500年頃までの間続いたユカタン半島におけるマヤ文明の遺跡の一つです。
場所は、有名な保養地であるCancunから南西に自動車で2時間ほどの場所にあり、ツアーが頻繁に催されていました。 松のや 武蔵小金井店
先日、所用があってJR武蔵小金井駅の周辺に出掛けました。
所要を済ませますとほぼ昼食の頃合いとなりましたので、何かテイクアウトで持ち帰ることにしました。
そこで思い出したのが松のやの味噌かつ丼でした。
因みに、小金井において名古屋テイストの料理をいただける店は寡聞にして知るところではありません。
私の知る限りにおいて「松のや」で供される「味噌ロースかつ丼」だけが名古屋テイストの料理です。
ということで、「松のや」に向かいました。
松のやでは未だ慣れぬ手でタッチパネルを操作して、漸く「味噌ロースかつ丼」の食券を手に入れることができました。
そして、食券の半券をお兄さんに手渡して待つこと5分弱、プラスティックバッグに入れられた「味噌ロースかつ丼」を受け取りました。
その受け取った「味噌ロースかつ丼」からはズシリとした重みが感じられ、その重みだけで訳も無く期待が高まるというものでした。
帰宅して、手をしっかりと洗い、洗顔とうがいもしてからプラスティックバッグから「味噌ロースかつ丼」一式を取り出しました。
待望の「味噌ロースかつ丼」は黒地に紅葉が印刷されたプラスティックボックスに入れられ、そこに「味噌ソース」と普通の「とんかつソース」が添えられていました。
それぞれの蓋を開けますと、黄金色に揚げられたロースかつがご飯とその上に敷かれた千切りキャベツの上に鎮座ましましていました。 味噌ソース
また「味噌ソース」は濃い赤褐色が怪しくもかつ妖艶にその存在感を誇示しており、箸の先のチョンとつけて味わってみるとあの味噌かつ丼のソースの味がしたのでした。
と、同時に我が口腔はコレコレ、コノアジデスジャ~ァと反応し、食べる前から唾が迸り始めたのでした。
そして、溢れる唾に遅れまじと「味噌ソース」を「ロースかつ」の上にかつからこぼれ落ちないように注意深く全量を回しかけました。
「味噌ソース」がたっぷりかかった「ロースかつ」を暫し瞠目した後、徐にセンターにある一切れから食べ始めました。
後は推して知るべしといいましょうか、数分の間に食べつくしておりました。
ただし、「味噌ソース」の味がも少し甘めであれば私個人としては完璧に好きな味なのでしたが、まぁこの味も松のやの個性というものと納得した次第でした。
Aztec Solar Calender
アステカの太陽暦カレンダーはその優れた天文学の知識を結集して作成されたものであるだけに、解説を読むとカレンダーとしてもまた物語としても興味深い内容に溢れています。
また、その記載されている模様は美術品としても優れていて、飽きることなく眺めることができるというものです。
なお、私の記憶は確かではありませんのですが、このアステカの太陽暦カレンダーはMexico City(ひょっとしたらMonterreyかもです)の空港にある美術品店か、あるいはMexico CityにあるCamino Real Hotelのギフトショップで贖ったように記憶していますものの、現在の脳味噌では思いだせるのはここまでです。 MUSEO NATIONAL DE ANTROPOLOGIA(1991年4月13日撮影)
太陽のピラミッド
1991年の11月頃のことであったと思います。
メキシコにある日系自動車メーカーを訪ねる前日の午後に時間の余裕ができたことから、「Teotihuacan」(テオティワカン)のピラミッドを見に行きました。 太陽のピラミッド
「Teotihuacan」はメキシコシティから北東に50kmほどの場所にあり、ホテルで手配してもらったハイヤーで、出張に同行していたAY氏と向かいました。
なお、私はこれより以前に母と妹を案内して「Teotihuacan」を訪れていて、多少の土地勘はあったのでした。 太陽のピラミッド中腹の踊り場
「Teotihuacan」は紀元前2世紀から6世紀頃まで続いた宗教都市だそうで、特に大きなピラミッドが有名でした。
ピラミッドには「太陽のピラミッド」と「月のピラミッド」という大きなピラミッドがあり、そのどちらにも登ることができました。
因みに、「Teotihuacan」は1987年に世界文化遺産として登録されているということです。 斜面で休憩
AY氏と私は、「ケツァルコアトル神殿」を見て、次いで「太陽のピラミッド」を頂上まで登りました。
「太陽のピラミッド」は高さ65m、底辺222mX225mの巨大なものです。
頂上までは石段が続いていますが勾配は急峻で、途中休み休み登ったのでした。 太陽のピラミッドにて
この「太陽のピラミッド」では、登る途中でメキシコの高校生たちと知り合いになりました。
ただし知り合いとはいいましても彼らは英語が得意ではなく、逆に私達はスペイン語が全くできないという状況でした。
さはさりながら、彼らは私達にたいそう興味を持ったようで積極的に話し掛けてきてくれて、言葉は通じなくても何となく意志の疎通はできたのでした。
なお、余談ではありますが彼らに片言のスペイン語で「Me llamo Carlos.](私はカルロスです。)と伝えたところ彼らはドッと大喜びしていました。 太陽のピラミッドから見た月のピラミッド
太陽のピラミッドから月のピラミッドへ向かう
そして、この後「月のピラミッド」(高さ:47m、底辺140mX150m)も彼らと一緒に登ったのでしたが、その頃にはお互いに打ち解けておりお互いに楽しく過ごしたのでした。
彼らの中で印象に残ったのはANTONIOという名の男子高校生でして、彼は私のRey Banのサングラスを掛けて終始ご機嫌でした。 月のピラミッドにて
さて、あれから約30年が経ちましたが、あの時の明るく闊達な高校生たちは今は50歳手前の紳士淑女となっていることでしょう。 ケツァルコアトル神殿
リヴィングスペース(ソファ、テレビなど全てレンタル)
私がM社のアメリカ現地法人の支店であるHouston事務所に赴任したのは1987年5月17日のことでした。
Houstonでは到着日から3週間に亘って現地の語学学校に通うことになっており、この間は一般家庭にホームステイすることになっていました。
が、現地法人サイドの都合によってのようでしたが、最初の1週間はホームステイ先から語学学校に通うものの、2週間目以降はオフィスに通えるアパートに移って語学学校の授業の後はオフィスにて仕事をするというようになったのでした。 ダイニングスペース(食器やテーブルはレンタル)
そして、移った先が「Oakwood Apartments」という日本ではマンションに相当する賃貸住居でした。
建物は3階建てのビルが10棟くらいあり、敷地内にはコンビニ的な売店やプールなどがありました。
また、部屋の種類は部屋数や広さによって選択肢がいろいろあるようでしたが、私が選択したのは二ブロック(キッチン、ダイニングスペース、リヴィングで一ブロック、寝室とバスルームで一ブロック)で構成される部屋でした。
家賃は家具一式のレンタル費用を含んで$700くらいだったように思いますが、37年前のことで今となっては定かではありません。 ベッドルーム
私はこの「Oakwood Apartments」に10ヵ月ほど居たのでしたが、実質は出張が多くて平均すると一カ月に10日ほどしか寝泊まりはしていなかったのでした。
また、余談ですが、レンタルの食器類は殆ど使わず、自分でWedgwoodの大皿やクリスタルのロックグラスを買ってきたりして無聊を慰めていました。
そして、最初の頃はRandallsという比較的高級な食材を扱っている食料品店で分厚いステーキ肉を買ってきてこれを焼いて食べたりしていました。が、その内だんだん邪魔くさくなって、Westheimer Rd.沿いのピザ店で買ってきたピザやサンドウィッチで夕食を済ませることが多くなったのでした。
ただ、出張が多かったということで会食も多く、栄養もアルコールも十分に摂取していたのでした。
更に余談ですが、ベッドのシーツは一度も洗ったことや交換したことはなく、結構バッチイことでした。 Oakwood ApartmentsはHoustonの幹線道路の一つであるWestheimer Rd.とSouth Voss Rd.の交差点の北西側ブロックにあった
青:Oakwood Apartments、オレンジ:The Galeria(高級ショッピングモール)、赤:Downtown(オフィスがある)
野川草刈のお知らせ
9月中旬頃から野川の鞍尾根橋から小金井新橋のエリアの草刈りが行われるようです。
野川では毎年定期的に淵の草刈りが行われていて、今年も実施されるようです。
過日、野川に沿って歩いていますと川に沿って廻らされたフェンスにお知らせが掲示されていました。
その内容は、草刈の理由、実施の頻度、配慮される事項、および草刈の実施イメージの図説となっていました。
私の知見が狭いことからこのような丁寧なお知らせは初めて目にしたのでしたが、読み進めますと草刈施工の内容について分かりやすい説明がなされていました。
現在の野川の淵は夏に成長した多くの草々で覆われていることから川面は所々しか見ることができませんが、秋の終わるまでには川面を遠くまで眺めることができる様になることでしょう。
リラクシングボール NH3700
パッと見たところあの忌まわしいウィルスを彷彿とさせる形のボールです。
しかしながら、この直径が10cmほどの突起が施されたボールは優れ物でした。
私事ではありますが、1月末からの疫病コロナの蔓延以降に8千歩を超える歩行をしたことがありません。
そのことに伴いまして体力の衰えは著しいような感じであり、併せて体調もスッキリしないことが多くなっていました。
ところがこの「リラクシングボール NH3700」を折りに触れて踏んでおりましたところ、気持ちのせいかもしれませんが体調がなんとなく良い感じになっています。(あくまでも私個人の感想です。)
多分ですが、ボール自体によって足裏の筋膜がほぐされるとともに突起によって足つぼが刺激されたことが主たる要因であると推察しています。
私は直立姿勢でこのボールを踏むことで体重を集中させて突起を足裏に突入させたり、あるいは椅子に座ってテレビを見ながら足裏でコロコロさせていますが、以前でしたら電気のコードを踏んだだけで痛さに飛び上がっていましたものが、今では何ら痛痒を感じることがなくなっています。
なお、商品としての愛称が「スッキリボール」とされていますが、スッキリ感というよりも何かがヨクナッタ感のほうが私には強く感じられます。
ということで、「リラクシングボール NH3700」は私にとってなかなかの優れ物でして、形が似ているとはいえコロナボールと呼ぶことは差し控えたいと思うところです。
焼豚、ローストダック、など垂涎の品々in中華街
(昨日の続きです)
中華街の名店「山東」で名物の水餃子を食した後は、中華街の中を漫ろ歩いてから来たのと逆のルートを取って赤レンガ倉庫を目指しました。
中華街の中は多くの中国料理店が並んでいますが、それらの中には私の好物である「焼豚」や「ローストダック」を販売している店もありました。
その昔、NYに赴任している時は時々チャイナタウンを訪れては前菜に「焼豚」や「ローストダック」を食したり、あるいは購入したりしたものでした。
特に買って帰った「ローストダック」はスライスしてインスタントラーメンに載せますと一気に高級ラーメンへと変貌するのでした。
今では物理的にも経済的にもこのような贅沢なことができないのが残念です。
さて、中華街を出て山下公園に入りますと、そこには明かりを灯した氷川丸が静かに浮かんでいました。
氷川丸は、全貌が見える昼の姿もヨロシイが、灯された明かりで浮き上がった姿も結構なものです。
氷川丸を過ぎてからは、ひたすら次の目的地である赤レンガ倉庫に向かって歩き続けました。
この歩く方向にはみなとみらいの大観覧車やビル群があり、ずっと視界に入っています。
歩いていますとゆっくりではありますが、景色が徐々にではありますが近づいてきます。 左手に港未来の遠景、右手に赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫では「Motion Blue」でジャズを堪能しました。 遊覧船
そして、22時に「Motion Blue」を出て、JR桜木町駅を目指しました。
歩いている最中も目線を水平方向の上げますと、横浜の夜景が目を楽しませてくれます。
時々立ち止まって写真を撮ったのでしたが、SONY製DSC HX-5Vは夜景も上手く捕えてくれたのでした。
なお、この日の小金井から桜木町経由中華街までの往復に要した歩数は、私の歩数計では21,646歩と表示されていました。 ランドマークタワー
JR桜木町駅前
横浜と称される場所は、予て私が知っていたエリアよりもずっと広い場所です。
しかし、私あるいは我が知人が横浜と言葉にする場合はその殆どが横浜駅から西へ向かった中華街や山手あたりまでの港沿いのエリアを意味しています。 みなとみらい横浜
その狭義の横浜という街は、私のように遠くに暮らす者にとっては都内の街とは些か趣を異にする街であり、その主たる要因は横浜が港を核に栄えた街で江戸時代末期に外国に門戸が開かれた場所としての伝統的な洋風の雰囲気を漂わせているということにあると推察しています。
また、加えて明治期以降も海外からもたらされた異国情緒をベースにして発展した生活文化の香が濃厚に漂っている街と考えています。 インターコンチネンタルホテル、大観覧車
ところで、私が初めて横浜を訪ねたのは大学院1年目が終わろうとする1978年3月のことでした。
この時は慶應大学日吉キャンパスを会場にして日本化学会の年次総会があり、そこで私の研究テーマに関して発表(研究テーマを持った学生ならだれでもする発表です)を行ったのでしたが、その帰りに研究室の先輩で既に就職されていた先輩に連れられて指導教授や仲間とともに中華街を訪ねたのが人生最初の横浜経験でした。 日本丸
中華街では「四五六菜館」という中国料理店で食事をしたのでした。
なお、店の入口付近の様子は記憶していますが、料理に関しては全く失念してしまいました。
とはいえ、料理は豪華なものばかりであって、おまけに回転テーブル上の大皿から自分の皿に取るという慣れない動作に些か緊張したように記憶しています。
それは、中華といえば「餃子の王将」くらいしか知らない京都の山猿のような貧乏学生には当然のことだったのでした。 日本丸
さて、2011年11月12日はHO氏とJR桜木町駅の前で待ち合わせて、港沿いのルートを中華街まで歩きました。
この日は天気の好い日で、歩くには絶好の日でした。 日本丸の近くのカモメ
この日のルートは、桜木町駅→みなとみらい→日本丸→海上保安庁資料館→山下公園→氷川丸→中華街(夕食)→赤レンガ倉庫(軽食、JAZZ)→桜木町駅、というもので、写真を撮るには被写体の選択に迷うということは皆無で、どこを見ても良い景色ばかりでした。
この時携行したカメラはSONY製DSC HX-5Vというコンパクトデジタルカメラでしたが、実に良いカメラでした。 海上保安庁PLH31しきしま(左)、大桟橋埠頭(右)
氷川丸
氷川丸とカモメ
山下公園からの氷川丸
関帝廟
横浜中華街
(明日に続く)
中国家庭料理 山東
9年ほど前のことでしたが、HO氏から誘われた横浜で開催される20時からのジャズライブに行く予定でした。
この日はHO氏と14時過ぎに桜木町駅前で待ち合わせて、途中寄り道をしながらではありましたが中華街まで徒歩で行きました。
中華街では関帝廟を見たりして漫ろ歩きましたが、17時になろうとする頃合いで夕食を摂ることにしました。
向かった先は水餃子でその名を馳せる名店「中国家庭料理 山東」でした。 入口
「中国家庭料理 山東」の前に至りますと、17時前という夕食には若干早い時間帯ではありましたが、さすがは名店「山東」です、既に数組の待ち客で占められていました。
しかしながら、客回転の良さもあって待つこと十数分で入店が叶い、店内奥にある6人掛けのテーブルに案内されました。
そのテーブルは言うまでも無く合席が前提でして、既に4人の若い女性が着座されていました。
HO氏と私は遠慮がちにテーブルの端に向かい合わせに座り、先ずは瓶ビールをいただく旨、店のお姉さんに告げました。 菜譚(立派な冊子となっている)
瓶ビールが供されるまでの間に菜譚を見ました。
「水餃子」は既に決定済みでありますが、他にHO氏の好みを尋ねまずと「茄汁蝦仁」がご所望とのことで、これもオーダーすることにしました。 茄汁蝦仁(海老のチリソース炒め)
先ず供されたのは「茄汁蝦仁」でした。
「茄汁蝦仁」を肴に飲むビールは結構な味わいであり、ビールをお供に食する「茄汁蝦仁」は実に佳い味わいでした。 水餃子
「茄汁蝦仁」が供されて程なく「水餃子」が供されました。
「水餃子」はワンオーダーが10個で、この日は2オーダーの20個をいただきました。 水餃子
当店の「水餃子」は茹であがりの状態で皮の厚みがが1mm弱あって、そのモチリとした食感が得も言えず艶やかであると同時に豊満な感じでした。
加えて、餡も秀逸で、厚手の皮に守られた旨味と程良い噛みごたえが独特の味わいを醸し出していました。
また、「水餃子」には当店の「特製ココナッツタレ」をたっぷり付けていただくのですが、このタレが落頬垂涎落涙落鼻水のもので、当店を訪ねた翌日には再訪に誘われるという逸品です。
基本的には「山東」には「水餃子」とビールを目的に訪ねるだけで100パーセント以上の満足度を得られるというものです。 特製ココナッツタレ
なお、この一文を認めるにあたってネットを見ますと、「山東」はミシュランに掲載されたり、2号店ができたり、はたまた本店が改築されたりしているようで、私が訪ねた時のような深い味わいを期待して良いのか懸念するところです。
コロナ騒動が終息した暁には再訪による確認を期するところです。
「BUTCHER REPUBLIC CHICAGO PIZZA & BEER」のバルコニーからの眺め
過日、とはいいましてももう9年ほど前のことですが、HO氏に誘われて横浜にジャズを聴きに行きました。
場所は赤レンガ倉庫にある「Motion Blue」というライブハウスで開演は20時でした。
店には1時間ほど居て「Motion Blue」に向かいました。
なお、これは2011年11月12日のことでした。
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