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2016年3月11日 (金)

汐留/ 2011年3月11日~12日

東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福を謹んでお祈り申し上げます。
現在も行方不明となられている方々のご無事を心から祈念いたしております。
また、残されたご家族の皆様の安寧なお暮らしを念じて止みません。
更には、今も心身ともに復興に向けて誠意ご尽力されておられる全ての方々が一日も早く目的を達せられることを祈念いたしております。



東日本大震災から今日で5年である。
そして、あの日も今日と同じ金曜日であった。
あの時、私は汐留シティセンタービルの中層階でデスクワークの最中であった。
記憶は決して定かではないが、ビルの地震警報が流れてから直ぐにビルが大きく揺れ出した。
それまでに当ビル内でも何度か地震を経験していたが、この時のは遥かに大きくかつ長く揺れたのであった。
明らかに地震と分かる大きな揺れが止まってからであるが、ビル自体からギギイ、ギギイという音が聞こえ始めたのであった。
その音とは、映画で見る木の船が軋む音を連想させるようなものであった。
そのギギイ、ギギイという音が十数秒続くと一旦おさまり、十数秒後に再び聞こえてくるのであった。

ふと我に返り電話を取ったが、自宅にも生家の方にも全く繋がらなかった。
一方、だめもとでインドに居た息子の会社に電話してみると繋がったのであった。
が、息子は工場に出ていておらず日本人の同僚の方に事のあらましを告げることができたのであった。
この後、息子から自宅にした電話は奇跡的に1回だけ通じたということであった。

ビルの中ではエレベータはずっと止まったままとなっていて、中層階から外へ出るのはできないことはないが、反対に戻ってくるのは結構大変である。
また、外の様子も分からないことから殆どの従業員は部屋に留まっていたのであった。

社内の各階にはテレビは無く、インターネットも情報が更新されない状態(回線が満杯だったらしい)であったことから情報は殆ど入ってこなかった。
そうした中で、できたことはただ待つということであった。

窓から外を見ると銀座の建物には変化は見られなかったが、JR新橋駅では山手線の車両がホームからはみ出した状態で停止しているのが見えたのであった。
東京タワーも変化は見られなかったが、後のニュースで先端のアンテナが傾いたようであった。

それから1時間後であったかどうかは記憶にないが、道路を見ると多くの人がJR新橋駅の方に向かって歩いて行くという人の流れが見えていた。
ただ、止まったままの山手線はそのまま止まったままであったが。

そうこうする内に、電車は全て止まっていて復旧の目途は立っていないということが伝わってきた。
また、NHKの臨時ニュースの内容が伝えられ、東北地方で巨大地震が発生したことや被害の状況が伝えられ始めたのであった。
この被災情報は時を追うに従ってすさまじいものに変じていくのであったが、未だ社内ではこのことを知るものは居なかった。

なお、幸いなことに電気は通じたままであって、室内の明かりは灯されていたが、それ以外は電話もエレベータも情報も止まったままであった。

当時はスマートフォンを持っている人はほとんどいなかったが、携帯電話の小さな画面でもニュースを見ることができ、私は夕方頃から映像情報を得ることができたのであった。
最初に見た映像はNHKで放送されたもので、押し寄せる水から逃れるために走る自動車であった。
ただ無事逃げてほしいという思いで映像を見ていたのであったが、今でも思い出すと心が痛くなる。

夜になっても余震は時々襲ってきて、そのたびにビルはギギイと嫌な音をたてるのであった。

ところで、夕方6時頃になると自宅まで歩ける人は歩いて帰ることになった。
私の周りでは墨田区在住で居酒屋大好き人間であるHK氏がそうであった。
月曜日になって聴いたHK氏からの話によると、特に混乱はなく人は整然と歩いていた、ということであった。

また、社内で備蓄されていた非常食料が配布された。
「保存用パン」の缶詰、「水またはお湯でできるご飯」のレトルトパウチ(2種類)である。
社内に残った人達は適宜食事を摂ったのであった。

また、電車はJR、私鉄、地下鉄の全てが止まったままであり、仮に動いても人が溢れて直ぐに運行停止となるという情報があったので、殆ど全員が社内で夜を明かすことにしたのであった。

1dsc02659 保存用パン(2011年3月11日18時39分)

1dsc02660 レトルトのご飯入手(18:52)

1dsc02662 同上完成(19:45)

1dsc02664 レトルトのご飯入手(21:50)

1dsc02667 同上完成(22:15)

夜は時々余震に襲われるが、揺れに慣れてきたのか椅子に座って明け方を待った。

1dsc02671 3月12日06時05分

12日は6時前に空が明るくなり、6時頃に日の出を迎えた。
快晴であった。
太陽の光を目にすると、何だか気分が静粛になった。
ただ、妙な気分でもあった。
銀座の街は見下ろした限りにおいては特に変化はない様子であった。
また、建設工事中の東京スカイツリーも健在であった。

1dsc02672 同6時18分

1dsc02674 同6時18分

12日は午前8時頃であったであろうか、地下鉄大江戸線と私鉄の京王線が動き始めたとのことであった。
管下の人達の状況を確認した上で、帰宅することにした。
ビル内の階段を地上階まで歩いて降り、地下鉄の駅に行った。
そこでは、多くの人が不定時運行となっている電車の到着を待ちわびていたが、その中に副社長秘書の女性が疲れた顔で立っていたので一声かけてお互いに元気を出して満員の電車に乗り込んだのであった。
帰りは、何時もの通勤時間よりも倍以上の時間がかかったのであった。




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コメント

放射能で汚染された地域にはいまだ帰還が叶わず、高台への移転を進める地域も、かさ上げ工事が遅々として
進まない間に周辺都市部などへの人口流出が止まらないようです。被害に遭われた方々の生活がどれほど大きく
変わってしまったかを思うと、申し上げるべき言葉が見つかりません。
一日も早く心と生活の安定を取り戻せる日が来ることを願うばかりです。

当地では「ドン」と大きな揺れを感じた程度で、このような大惨事が起こっているとは夢にも思いませんでした。
タイに駐在中の兄から「日本がたいへんなことになっている」と電話をもらって、初めて状況を知りました。
あわてて東京の父に電話を、親しい知人にメールで安否確認をしましたが、幸いにもほどなく無事が確認できて
ほっとしたことを思い出しました。
貴兄もたいへんな経験をなさっていたのですね。都心におられた方の生々しい体験談を伺って身の引き締まる
思いがいたしました。貴重な記事をありがとうございました。

あの日から5年になりますね。
被害にあわれ他県での生活を余儀無くされ、心のバランスを崩された方、大切な方を亡くされた方の心中はいかばかりかと思います。
1日も早く故郷での生活ができ、笑顔が戻ります事を願っております。

J氏さんも大変なことでしたね。
我が家は主人と息子が帰宅できず翌日になってしまいました。
心配になったのは実家の両親でしたので直ぐに連絡を入れました。
今まで防災には何の用意もしてありませんでしたが 防災グッズを家族分用意しました。
今後、このような事がおこらない事を願うばかりです。

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